読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。
わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!
苦手な方歓迎!古文・漢文が、最短時間で、正しく読めるようになるために。文法の知識と読み方とを丁寧に解説します。
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講師の八柳です。
文化資本ということばがありますね。
わたしは劣等感のかたまりで、作家や学者の評伝に、幼少期、父の蔵書を絵本代わりに読んで育ったとか、祖母の影響で絵画だの謡だのに親しんでいたとかいうたぐいの記述を見かけると、むきーっとそのページを噛みちぎりたくなってしまいます。
わたしの家は三代さかのぼっても文化とはまったく縁のない家がらで、「父の蔵書」といえば強面の男たちの血なまぐさい暗躍を美化したマンガや小説、他人の私事を大げさに暴きたてる下世話な雑誌ばかりでした。
そんな雑誌の裏表紙にはよく、札束風呂につかった得意気な若ぞうが何人かの女性にかこまれた写真が載っていて、「これのおかげで」と高額なパワーストーンの購入をうながしていたものです。
生きるのは不安なことですから、脇に添えてある番号に電話したくなる気持ちもまったくわからないわけではありませんが、若くしてあれだけ大勢の福沢諭吉、いまなら渋沢栄一と裸のつきあいをしたあとの湯冷めの感覚は、さぞかし堪えることだろうとおもいます。
あの男のひとがいまどうしているかは知りませんが、彼はかえって呪いの石をつかまされてしまったのではないでしょうか。
わたしもできるなら、しばらく旧いままのこのホームページのトップ画面にお札ぎゅうぎゅうのアタッシェケースをてんこ盛りに積んだスーパーカーを華麗に疾駆さす全身きんきらきん、両腕じゃらじゃら高級時計のなぞの金髪男の写真などを載せて「この塾のおかげで……」とでも言わせたいところですが、国語の勉強は魔法の石とはちがいますから、なにもかもをもたらしてくれるわけではありません。
いったい国語を勉強することによって、富は築けるのでしょうか。異性の関心はあつめられるのでしょうか。
三つの段階で考えてみたいとおもいます。
まず、ほどほどに勉強する段階です。これは大いに効果があるとおもいます。
クリティカルに考え、ロジカルに主張する能力が仕事の場で役立たないはずがありません。読解の力を鍛えれば、口頭・文書にかかわらず、相手の言っていることがよくよくわかるようになりますし、豊富な語彙を得ていれば、こちらの言いぶんを、時に強硬に時にしなやかに、わかりやすく伝えることなどお手のものです。
「できるやつだ」と評判がたち、浴槽を満たすほどでなくても、月々安定した枚数の銀行券が舞いこむようになるでしょう。
ことばを、自在に操ることができています。過不足なくなにもかもを言い尽くせているという爽やかな実感もともないます。歯の浮くような文句もすらすら言えるでしょう。それになびく心もあるでしょう。スピーチなどへもひっぱりだこです。修辞の達人です。
しかし、あまり勉強しすぎると、ひらけてくるのはうらさみしい概念世界です。山へのぼると一定の高度で植生限界がおとずれるように、生活のなかの、なにもかもが味気なく、くだらなくおもわれてきます。
友だちと海へ行って、バーベキューなどしてみても、みなで夕日など眺めても、「おおー」とか「ああー」とかで満ちたりていることはできなくなってしまいます。
雑談にもうまくなじめません。べつにみんなは議論がしたいわけではないのにあなたひとりだけ妙にこむずかしいことを言ってしまったり、込み入ったお説を打ちはじめたりしてその場をしらけさせてしまいます。そして、話がふたたびいい感じの取りとめのなさを回復していくと、今度はあなたがしらけるはめになるのです。
前は安易に言えていた冗談がうかうかと口走れなくなってしまいます。わかっていたはずのことがらの異様なわからなさの前でことごとく立ちすくむようになっていきます。
口数がめっきり少なくなり、たまに口を開いても、でてくるのは遠慮がちな、まわりくどい言いまわしばかりなのでしだいに敬遠されるようになります。
変わり者とか、頭でっかちとかおもわれています。
あなたはあなたで、隠棲志向をこじらせ、まわりのひとびとを洞窟の壁の影絵にくぎづけの囚人のごとく見なすようになっています。
諭吉や栄一などは嫌悪の対象です。書物の風呂にどっぷり浸かりこんでいます。概念崇拝です。それこそがパワーストーンだと思いこんでいるのです。
ここでとどまるのがいちばん危険です。この先へすすまなければなりません。
その先でどういう境地が待っているかというと、べつにどこへも到りつくことはなく、ただちょっとばかり雲は晴れてきて、独りぼっちの死の世界だと思いこもうとしていたそこはじつはたくさんの先人に踏みならされてきたふつうの山のふつうの中腹であり、リフトなんかもじゃんじゃん通っていて、なんなら団子屋もそのへんに点在しているということです。
肩の力が抜けてきて、思ったことを気軽に声に乗せられるようになります。むずかしいことはむずかしいまま考えつづけられるのですが、そのむずかしさまではなかなか伝わらないもどかしさを、じんわりと楽しめるようになります。
日々の行きちがいはおもしろく、絶望でなく、驚嘆のたねです。
そこは山かもしれませんが、一登山者の視点としては野原と変わらないのであり、のぼらなくてもいいのであり、仮にのぼりきるようなことがあったとしても、山はたくさんあるのです。そこで、くつろいだ気持ちで散策をはじめることができるようになります。
しゃべることも、黙ることもできるわけですから、稼ぎたければ、稼げばいいでしょう。メシを食うために、お金は大切です。
浴槽は、ふつうに、お湯をはるためにあるものです。肩が凝っていたら、入浴剤をいれるのもいいでしょう。
こう考えてみると、国語を勉強することで、わたしたちはくつろぎの質を高めていくことができるのではないかとおもいます。
明晰なことばでとらえられた感情は大げさに暴れまわることをやめますし、じぶん自身をていねいに読み解きつづければ、神出鬼没で千変万化なパワーストーン的存在の呪力にも屈することはなくなります。
おのれの欲望を知り、情動や衝動にふりまわされることなく、のんびりしていられる時間はともかく増えるでしょう。
のんびりといったって、暮らしのさなかには現実問題としてたくさんのやらなければならないことが襲いかかってくるわけですが、これにしてみても概念を解きほぐして考えるくせをつけておくと「やらねば」という悲壮な観念にとらわれることはなく、「まあ、やらなきゃなあ……」くらいですむようになってきます。
べつにもともとそのくらいゆるゆる生きられているひとは概念云々の効用はあまり感じることもないかもしれませんが、なにごともいちいち深刻に思い悩みがちなひと、札束風呂に飛びこんでみても「えっ……?」としか思えなさそうなひとはこのさい徹底的に国語の勉強をしてみると、あなたを苦しめているものの馬鹿らしさも厄介さも、不可解さも複雑さもすこしずつ見えてきますから、そのぶん自由に近づいていけるのではないかと思います。