読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。
わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!
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講師の八柳です。
みなさんはトイ・ストーリーという映画を観たことがありますか。
カウボーイや、宇宙飛行士や、犬や恐竜といった、さまざまな見かけや性格の人形たちが、抜群のチームワークでいろいろな事件を乗りこえていくお話です。
あの映画で、人間がすがたをあらわすといつも人形たちはパタンと身じろぎひとつしなくなってしまいますね。
同年代の友だちとのあつまりで、話題が世間のことに及びはじめると、わたしはいつもあんな感じになってしまいます。
意思のない、打ちすてられたおもちゃのように、つくねんと硬直してしまうのです。
わたしは、じぶんほど物知らずな人間もなかなかいないだろうとおもいます。
わたしくらいの年ごろであればふつうちょっとしたものになっていてしかるべき世間知や社会常識の蓄えが、ぜんぜんないのです。
たとえば、「株式会社」のしくみがわかりません。
そのような形態をとっている企業に属していたこともありますし、その優待情報を主要な売りとする雑誌の校正さえ担当したことがあるはずなのですが、「株」というのがなんなのか、いまだにわかりません。
友だちのなかには、その売買によって多大な利益をあげているひともいます。
「車一台ぶん」
とかれは、その額を誇らしげに仄めかしてくれました。
けれども車って一台いかほどするものなのか、わたしにはとんと見当がつきません。
このあいだ、生徒さんに教えてもらってはじめてベンツのマークを知りました。
だから街でさっそうとすぎていく当該車種を見かければ、「あっ、ベンツ」とひとつ覚えのように頭のなかでつぶやくようにはなったのですが、ああいうものがなぜお金持ちのひとたちの熱烈な持て囃しをうけるのか、いまだに理解できません。
フェラーリ、ロールスロイス、ランボルギーニ……たとえ目の前をびゅんと飛ばしていったとしても、歓声をあげる自信はありません。
このあいだも、ある生徒さんに「グローバリゼーション」の説明をさせてもらっていたとき、「ほら、世界中どこに行ってもアメリカのお店を見かけるでしょう。ユニクロとか、マクドナルドとか……」とひとさし指を立ててみせたら、「ユニクロって日本企業ですよ」と指摘され、愕然としてしまいました。そんなことも知らないまま、毎日よたよたのドライEXシャツに袖をとおしていたのです。
ですからわたしはよく、生徒さんに「そんなこと、どこで知ったの?」と尋ねます。
それは、なんらかの教育的効果を期待してのことでなく、本心からそう不思議がっているのです。
わたしは、興味のないことはまったくおぼえられません。「あとでしらべよう」とおもっても、その「しらべよう」すら忘れてしまうのです。
そのくせ何年も前のあやまちやしくじりにいつまでもくよくよしつづける性向もあるのですから、この脳みそが、ざる状であるのはまちがいないにしても、その目は粗いのかそれとも無駄にこまやかなつくりなのか、いったいどういう形状をしているのか、理解にくるしむところです。
こんなわたしにとって、知らないことは恥だとされる場所にいつづけることはたいへん苦痛なことでした。
なにかについて知りません、と白状したわたしが、つぎに「教えてください」とつたえる前に、鼻白まれたり、冷笑されたり、正気を疑われたりしてしまっては、そこでわたしはしょんぼりとして、「知りたい」どころではなくなってしまいます。
そしてわたしはこうおもうでしょう。
「くそう、こいつらは。おれは、カントもニーチェも知っているのに。トルストイもドストエフスキーも、みんな読んできたというのに」
こうしてあらたな蔑みのたねが生じます。
世のなかに、知らなくって恥ずかしいことなどひとつもありません。
なにか知っているからといって偉くなれるわけでもありません。
けれども知らないことを恥ずかしがらせようとするひとたち、知っていることで偉ぶろうとするひとたちはたしかにいます。
より正確にいうならば、あるひとのことを、「知らないことを恥ずかしがらせようとする」行動や、「知っていることで偉ぶろうとする」態度へといざなってしまう、なんというか、こんがらがった、かなしい鎖のようなものはまちがいなく存在しています。
たびたび宮沢賢治のお話をして恐縮ですが、『銀河鉄道の夜』という物語に、一見いじわるな、ザネリという男の子がでてきます。
そのザネリから、帰ってこないお父さんについてからかうようなことをいわれたジョバンニは、胸をつめたくし、こんなことを考えます。
「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。走るときはまるで鼠のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかだからだ」
もしこの本を読むことがあったら、ジョバンニのこのことばの意味について、どうかよく考えてみてください。
ザネリがいじわるをしたくなるのは、いったいなぜでしょう。そのかれを、ジョバンニがばかだと言いたくなるのはなぜでしょう。
わたしをはげましてくれることばの一つに、大好きな作家のながいながい小説の一節なのですが、こんなことを言っているくだりがあります。
「戦争に行ったからといって、だれもが偉大な叙事詩人になれるわけではない」
それなりの年数を生き、たくさんの経験をしてきたひとは、その経験をもとに、なにか若いひとへと教訓を伝えたくなるものです。
それは大いにけっこうでしょう。
わたしもそうして、たくさんの大人たちから「なるほどなあ」と思えるようなお話を聴かせてもらってきました(わたしがいまこうして書いているのも、そういったたぐいの文章だといえるかもしれません)。
けれどもそのとき大人側がけっして忘れてはいけないのは、ひとは、それぞれの人生を生きているということです。
あるべつのひとが生きぬいてきた十年や二十年に、あなたがあなたとして生きてきた十年、これから生きていく二十年は、ふくまれていないのです。
あなたはあなた歴において、だれよりも先輩なのです。なぜなら、あなたの人生は、あなたにしか生きられないからです。
あるひとつのできごとが、万人におなじ経験をもたらすということはありえません。
「おれもむかしはそうだった」
「あたしもあんたくらいの歳のときさあ」
そんなふうに説教されるたび、わたしは「ん……?」と違和感をおぼえてきました。
「おれは、あんたではないぞ」
もちろんひとが、ある種の話題においてなぜそういう語りかたをとりがちなのかということについては、もっと微妙な問題もふくまれてくるでしょう。たとえば話し手と、話されることばとの関係、ということについて、もっとよく考えてみなければならないにちがいありません。
できごとを経験にするのはことばです。
あなたがあるひとつのできごとに、あるひとつの角度からだけことばの光を照射しつづけるなら、そのできごとはいつまでも、単一の扁平な意味しかあなたに明かしてくれることはないでしょう。けれどもあらゆるできごとは、ほんとうは解きつくせない多面体なのです。
みなさんは作文のとき、「書くネタがない」ということをよく口にされますが、ネタなどなくていいのです。話の中身など、どうだっていいのです。
大切なのは、それをどう書くか。どういうことばで、あるできごとのある側面を発見していくかなのですよ。
「昨日、どんなことがあった?」
わたしの問いかけに、
「んー、なんにもなかった」
そう答えてくれる生徒さんがいらっしゃいます。
なんにもなかった、はずはないのです。あなたはビッグバン以前の虚無空間をただよっていたわけではないのですから。
なにかはあったはずなのです。
けれどもそのささやかな「なにか」はすみやかな概数化の結果、無にひとしいものとしてあつかわれ、素粒子のようにあなたのこころをすり抜けてしまったのです。
しかし、この世のあらゆる物質がけっきょくはまさにその無数の粒子から成っているように、あなたの人生も、大半の部分は書くに値しないできごとから構成されているのですよ。このことをあなたはどのようにおもいますか。
たくさんのめずらしいできごとを経てきている必要はありません。
知らないことがいっぱいあったってかまいません。
「〇〇じゃなきゃ」という思いこみを解除して、あなたのすでにもっている、ささいなできごとのあらたな意味を無数に発見してください。
わたしはそのお手つだいをします。