読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。
わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!
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講師の八柳です。
わたしはこれまで何人もの「先生」と呼ばれる職業のひとらと関わりをもってきましたが、真にその呼称にふさわしいとおもうことができたのはただ二人だけでした。ひとりは、学部生のころから、大学院時代にまでお世話になった、作家で、フランス文学者でもあるH先生です。
わたしは十八のころ札幌からわざわざ上京してきたのですが、それはちょうどわたしの大学入学年度に創設予定だった新学部で、あの先生に教わりたいがためでした。わたしはあの人に会ってはじめて、じぶんがこれまで「尊敬」というものを知らずに生きてきたことに気がつきました。
ゼミの面接の日、わたしは大きな楽器を背負っていました。
ふつう持ち歩きに適しているとされる61鍵や73鍵のキーボードでなく、88鍵の電子ピアノです。
ハンマータッチの、通常据え置きにしておくタイプのものですが、そのころ友だちと楽器を演奏する習慣があって、しかもシンセサイザーなど買うお金をもっていなかったわたしは、しかたなく、もともと持っていたその電子ピアノを、引っ越し用のケースにいれて毎日背負って歩いていました。
振りこまれた定期代は本につかってしまったので、新井薬師前から一時間ほど、徒歩で通学していたのです。
リュックのほうにもいつどれが読みたくなるかわからない先々のじぶんのため複数の本をぱんぱんにねじ込んであったので、日々、夜逃げしているような大荷物でした。
先生はたしかそれにひとことも言及されなかったとおもいます。さらり、さらりとしている人でした。
「ほんとうはねえ、八柳くん。僕も、誰かを選んで誰かを落とすっていうやり方は、とりたくないんだ。できれば、紙飛行機で決めたいと思っているくらいなんだよ」
いくつかのごく形式的なやりとりの後、最後に質問は? ときかれたわたしは、落選した場合、もう二度とこのひとに会う機会はないかもしれないとおもい、当時のわたしとしては思いきった、いまにしてみればずいぶんとういういしい問いかけを先生に向けました。
「作家の書くものは、どこまで意図の産物なんですか?」
わたしはゼミに所属することになりました。
先生の、授業のやりかたは学部だろうと大学院だろうといつもおなじでした。なにか一冊の小説を、とにかくじっくり読むのです。一回に二、三ページ、いや、もしかすると数行くらいしか、すすまないこともあったかもしれません。代わる代わるに音読しながら、一文ずつ、おとずれた読みかたを自由に披露しあっていくのです。
「ここは、どうだろう? 何か思ったことはありますか」
先生はごくおだやかに、かすかにいたずらっぽく、そう問いかけられました。「子規はお菓子が好きだった」とか「鉄瓶の茶が湧いた」とか、どんな些細な一文であっても分け隔てなく取りあげられました。そして決まって、こう添えられました。
「僕が何か答えをもっているわけではないんだけれどね」
この読みかたを、先生は、「頁の風景を変える」と表現していらっしゃいました。
三四郎が、汽車に乗っている。となりのボックスに、女性も乗っている。食べ終わった弁当の包みを、窓から三四郎が放りだす。折しも、女性が身を乗りだす。空っぽの弁当箱が、あわや、直撃しそうになる!
こんなくだりがでてくると、わたしたち、たしか修士課程の一年目だったとおもいますが、二十二、三のりっぱな大人たちが、ちいさな教室の椅子を三等車の座席に見たてて、進行方向はこうだとか、風向きはこうだとか、女の動きはこうだとかいいながら、しきりと身体を動かしてみるのです。
いまわたしの教えさせてもらっている「精読」の授業でも、生徒さんがたは、ノッてくるとこのような読みかたをしてくださいますね。わたしはそれを見ていると、速いながれの川のなかに立ち尽くしているような気持ちになります。
先生は、ご自分からなにかまとまった見解を説かれることは稀でした。われわれ若いゼミ生の、いま思い返してみればトンチンカンもはなはだしい議論のさまをしごく鷹揚に見まもっていてくださいました。そして時折控えめに意味深長なひとことをつぶやかれるのでした。つねにもの柔らかで、このひとがゴルゴ13の愛読者だとか、ヤクザ映画の愛好家でもあるなんて、わたしにはどうしても信じられないことでした。
おなじゼミの仲間が、就職先の一候補として金融機関を考えていると先生に相談したところ、先生が語気をつよめてそれに反対したという話を聞き、わたしはひどく意外におもいました。同時に妬ましくも感じました。
わたしはといえばゼミ論の講評会かなにかのときに、「まあ、真人間になれるなんて思わないことだよ」そう予言され、きょとんと首をかしげているばかりでした。
わたしは先生の作品を何冊も書きうつしました。先生のような気品あることばの書き手になることを夢みていました。けれどもそれは達成されませんでした。先生が先生のようにしか書けないのと同様、わたしもわたしとして、どうにかやっていけるやりかたを見つけなければなりませんでした。そのためにあこがれや尊敬が遠まわりをもたらすのかそれともなんらかの力を添えてくれるのか、わたしにはいまだ、判断はついていません。
あるひとの傑出した部分を目撃するたび「このひとのようになりたい」そう思う悪癖が、いまもわたしからは抜けきりません。ゆるやかに下降していく年代にはいったというのに、です。
もうひとり、わたしが真心をこめて「先生」と呼んでもいいと感じているのはこの塾の塾長です。
べつにいま、背中に銃口を感じながら宣伝文をつづらされているわけではありません。
本心からそうおもいます。
塾長は、わたしの恩人です。いくら人手にこまっているからといって、空いたばかりのその隙間を、どこからともなく転がりこんできた得体の知れない石ころでふさごうとなど考えるでしょうか? 「人物」だなあ、とおもいます。
わたしが、作文の授業で「鑑賞会」に重きを置いているのも塾長の影響です。
そうしろ、と教えられたわけではありません。塾長が、わたしに体現してくれたのです。
「先生、『フォース』はありますよ」
わたしはこういうことを、わりに大まじめに言ってしまうところがあります。この歳ではじめてひとさらい観たスター・ウォーズの影響を、この時期にはうけていたのでしょうね。生徒さんがたひとりひとりに、こころのなかで、メイ・ザ・フォース・ビー・ウィズ・ユー、とつぶやきかけてもいました(口にだしては言わないだけの分別はあるわけです)。
もちろん、わたしだってさわらずに人の首を絞めあげたり、果物を意のままに浮遊させたりするような異能が実在しているとはおもいません。隠喩としてのフォースです。
その旨わたしがしどろもどろにお伝えすると、先生はウーンと考え込んでくださってから、こうおっしゃいました。
「それならダース・ベイダーは、いるだろうな……」
こういうとき、わたしの気持ちは華やぐのです。虚構を真剣に分かちもってもらえたことによる、よろこびの花がひらくのです。
塾長は、わたしのばかげた発言を、一笑にふしたり、黙殺したりすることなく、その意味するところについて、真摯に熟考してくださいました。いつもそうなのです。
人間は、それぞれの現実を生きていますから、だれかにとっての現実は、あるひとにとってはたんなる虚構にちかい存在感の希薄さをもっています。
他人の現実を、頭ごなしにこきおろすのならそこに争いが生じるでしょう。
唯々諾々と受け容れつづければ、いずれじぶんの現実が虚構に反転するでしょう。
塾長がいつもわたしに示してくれるのは、このいずれにも偏らない、虚構と現実との、第三の取りあつかいかたであるように、わたしにはおもわれるのです。
あなたがもし国語力をみがき、自分自身の内なる声をけっこうしっくり読みとれるほどにまでことばの取りあつかいに長けてきたのなら、そのちからを、どうか友だちのためにも使ってみてあげてください。
友だちでなくてもかいません。だれか大切なひとのために役立ててみてください。
そのひとの話すことに、じっくりと、大まじめに耳を傾けてあげてください。
そのひとのことばそのものや、浮かんでくる自分自身の思いを、どこまでも入念に「読解」しようと試みつづけてください。
そして相手の見ている世界にふさわしいことばを繊細に、けれども大胆に選びとりながら、挑みかかるのでなく、包み込むのでもないように、いろいろなことをまっすぐに問いかけてみてください。
じぶんにとっての現実の息づきを、他人のなかにも感じられることはひとつの奇蹟です。それを分かちもとうとこころざしてくれるひとが一人でもいれば、生きることはそう困難ないとなみでもなくなります。「読む」ことがひとを救うのです。
有名な禅の公案に、こういうのがありますね。
「両手を合わせれば音が鳴る。では、片手の音は?」
わたしが塾長と他愛ない雑談をさせてもらっているとき、しばしばよぎるのがこれなんです。
片手の音だなんて謎めいた言いぐさですが、そもそも両手がぶつかって音が鳴ることだって、じゅうぶんなおどろきではないでしょうか?
鑑賞会でわたしが感じてほしいとねがっているのは、じつはこのようなことなのです。
ところで、わたしはこれまでじぶんの出会った二人のよき教師について書いてきました。それなら、悪しき教師とはどんなひとでしょう?
それは、スター・ウォーズの暗黒卿です。
エピソードⅢで、ダース・ベイダーになったアナキンの肩をたたく、さもいたわしげなあの手つき、あのほくそ笑みをよく見てください。
あれが、最悪の教師というものです。